#30 新井紀子氏「夏蜜柑とソクラテス」と柔らかい志

新井紀子氏から最近出版されたエッセイ集『夏蜜柑とソクラテス』(草思社)を贈呈いただきました。表紙はシンプルで、どうもご自身の愛用しているセーターの写真とのことですが、さわやかな気持ちの良いエッセイ集であることが感じられる素敵な表紙です。

新井紀子氏は数学者で、「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトで一世を風靡し、その後『AI vs.教科書が読めない子どもたち』(2018年)日本エッセイスト・クラブ賞、石橋湛山賞、山本七平賞、大川出版賞などを総なめにした著名人です。
私は10年近く接点があり時々話を聞いています。

本エッセイ集は新井氏の初めてのエッセイ集ということで興味深く拝読しました。
数学者にもかかわらず、著名な小説家やエッセイストによるものと全く遜色ないとても読みやすく、生活感あふれる柔らかい印象のエッセイ集です。

本人がなぜ法学部から数学者に転じたのか、数学者の松坂和夫先生との出会い、アメリカのイリノイ大学での留学生活、学園祭でのユーミンのインタビュー、犬や猫との生活、様々な自作料理の話、大好きな蕎麦の話、人工知能を巡る技術の限界について、人の幸せとAIについてなど新井氏の思索と幼少期からの生活すべてが凝縮しています。

新井氏と話しているとこちらの底の浅さが見抜かれてしまう感覚があり、気負うと話がかみ合わず、どちらかと言うと自然体での会話の方が落ち着きます。
芯が強く、コアとなる生活価値観があり、日本の若い方々の将来の読解力を心配して、リーディング・スキル・テストを開発し、毎日作問をしてリーディング・スキル・テストの普及に努めて、日々活動されています。

私のベスト3は「夏蜜柑とソクラテス」「浅草の男」「ユーミンと猫」です。
特にエッセイ集のタイトルでもある「夏蜜柑とソクラテス」の夏蜜柑の話は、私の実家にも夏蜜柑の木があり、毎年150-200個収穫できるので、マーマレードの話も含めて楽しく読んだところです。

こうしてベスト3を選んでみると、人口知能(AI)を巡るやや硬質なエッセイよりも食べ物や生活のエッセイの方に関心を持ちます。日々のちょっとした幸せは、毎日の手を抜かない生活にあることをあらためて感じるところです。

今回の私のエッセイの表題は「新井紀子氏「夏蜜柑とソクラテス」と柔らかい志」としました。「柔らかい志」は、新井氏の本質のような気がしたからです。教育や科学に対する信念や志は堅固で、志は「硬い」ものと決まっていると思いますが、新井氏からはそこにある種の柔らかさを感じることもありこうした表題にしました。

「夏蜜柑とソクラテス」から1箇所引用します。

「「そんなに楽をすると大切な何かを失うに違いない」という固い信念が、私にはある。・・・「文字」は人類史上、火と並ぶ大発明だが、「文字で残す」ことの利便性に興奮するプラトンをソクラテスは戒めた。それでも発明された便利な技術は必ず普及してしまう。その意味ではプラトンの判断は正しい。一方で、「得たなら必ず何かを失う」というソクラテスの戒めも正しいに違いない。」(31頁)とあります。

科学の発展と生活様式の変化に思いを巡らせる新井氏の真骨頂のエッセイでしょう。
先週ある金融関係者と話していたところ、イタリアの方からその方に「いよいよ日本も政治的にイタリア化が進んできていますね」と話しかけられたとのことでした。

日本の政治はすでに1993年の細川政権の発足以降、連立政権が基本となっていたにもかかわらず、自民党と公明党の連立政権が1999年以降安定的な形で運営できていたこともあり、合従連衡のような離合集散は行われにくかった面があります。

イタリア化をどう定義するかによるところはありますが、一般的には、少数与党、合従連衡やその頻繁な組み換えを前提とすることになるのでしょう。

政治は国の骨格ですからそうした不安定性は国家に揺らぎをもたらすでしょうが、政治がどう変遷しようが、日本の平成の30年の停滞があるにもかかわらず日本文化の豊潤さや裕福な思索は、人々の幸せの根底にあることを新井氏のエッセイから感じることができました。

イタリアの方々が人生や生活を謳歌していることはよく言われるところで、日本のイタリア化も、あまり深刻にとらえ過ぎない方が良いかもしれません。

今年、亡くなられた女優の吉行和子氏のエッセイ『そしていま、一人になった』(2019年;発行ホーム社、発売集英社)も、身近な吉行家の人々の思いでの話題、人生の残り時間の楽しみ方などが綴られていて、家族や親しい間柄の人々との交流がいかに人生を有意義なものにしているかがうかがわれるエッセイ集でした。

こうした様々なエッセイ集を読むと気持ちが穏やかになり、また日々の世の中の喧騒から少し離れたところに身をおくことの大事さについてあらためて感じるところです。

皆さんから本エッセイ含めてご意見をお寄せください。

(2025年10月20日 記(明日は首班指名選挙) イノベーション・インテリジェンス研究所 幸田博人)