#25 戦後80年から何を考えるか

この8月は戦後80年を迎え、慰霊や鎮魂に思いを馳せつつ、最近の不安定な世界情勢から世界の大きな枠組みの変化の入り口にたっていて、日本の立ち位置はなかなか定まらないこと大変心配しています。

今回のエッセイ、「メルマガ2年目に入りました~戦後80年から何を考えるか~」としました。

戦後80年は、戦災からの復興、そして高度成長につながり、その後のバブル崩壊、平成の30年間の停滞という大きな流れでした。現在地はかつて予想もしていなかった「日本の停滞」という中で、あらがっている状況にあります。

1990年のバブル崩壊、1995年の成長率の屈折(GDPが増えなくなったこと)から、未だに抜け出ていないということです。当時1990年代、バブル崩壊や金融危機、不良債権処理などに手間取ったことが、日本の停滞の大きな敗因であったことは間違いないところかと思いますが、それ以上にポスト冷戦が世界に何をもたらすかが十分に測れていなかったのではないでしょうか。

世界の大きな枠組み変化であった「冷戦終了」の意味について、「資本主義の勝利」や「民主主義の普遍性」のような概念的優位性に重点がおかれてしまい、経済的なプラグマティズム的な要素としての社会構造の安定化に注ぐ力が弱かったのではないか(例えば、階層間の富の格差、世代間のギャップなど)と思います。

ポスト冷戦の世界観に対する基本的な共通認識に間違いがあったことが、より重要であったとも思われます。

参考になる当時の書籍から2冊見てみます。一つは、国際政治学者の進藤榮一著『アメリカ 黄昏の帝国』(岩波新書;1994年12月)です。
この新書は、ポスト冷戦下で「唯一の超大国」になったアメリカの衰退を当時の時点で論じているものです。冷戦の終了を歴史的な「資本主義の勝利」と見たことが間違いで、アメリカの凋落と破綻に向けた歩みが始まったことを論じていたものです。

日本としてのポスト冷戦についての世界観の欠落が、当時の危機感の不十分性ともリンクしたのではないかと思われます。アメリカの衰退を正面からとらえ、中国の台頭の意味を考え、そして日本の立ち位置をどうとらえるか、今の時点で過去を振り返って言うは易し、当時に認識するのは難しいのは当然とも思いつつ、こうした視点が必要であったと思います。

進藤氏は、「アメリカもまた、かつての大英帝国と同じように、巨大な帝国から「並みの大国」への苦渋の転換期に差しかかっている。」(同書 はじめに)とあり、それがこの書籍から30年後の今、誰にでも、まさに超大国アメリカの「おわりのはじまり」が目に見える形となっています。

もう1冊が、今でもよく論じられることが多森嶋通夫著『なぜ日本は没落するのか』(岩波現代文庫;2010年7月、原著は1999年3月岩波書店)です。

この中で、森嶋氏は、はしがきの中で、

「日本はいま危険な状態にある。次の世紀で日本はどうなるかと誰もがいぶかっているのではなかろうか。・・・照準を次の世紀の中央時点―2050年―に合わせて、その時に没落しているかどうかを考えることにした。」(はしがき)、

「人口の量的、質的構成が決定されるならば、そのような人口でどのような経済を営み得るかを考えることが出来る。土台の質が悪ければ、経済の効率も悪く、日本が没落するであろうことは言うまでもない。」(同書7P)


と言っており、その後、精神、金融、産業、教育の荒廃について論じ、処方箋として教育改革と「東北アジア共同体」構想を訴えています。

後者の「東北アジア共同体」構想は現時点では非現実的であり困難と思いますが、日本単独での道すじでは没落は免れ得ないこともあるでしょう。

いずれにしても危機感を前提に日本の未来(例えば25年後の2050年を視野に)を世界の情勢とリンクさせて国民的な議論をしアクションを取ること、短視眼的な議論からは脱却することが強く求められると思います。

今回は、25年以上前に警鐘を鳴らしていた書籍から振り返って、現在を考えてみました。警鐘に、なぜもう少し応えることが出来なかったかは、日本国民の過去の成功体験にこだわった面があること、長期的な視点での取り組みの弱さ、日本の体質として本格的な自己改革は常に難しく外圧の下でしか大きく変わってこなかったことなど、潜在的にあるものと思われます。

今回は戦後80年の文脈から考える8月ということで、戦後80年を振り返りつつも、それを糧に未来を見つめてアクションを取ることまでどうつなげていけるか、筆者自身もそうした視点から様々なことに少しでも取り組めればと思います。

是非、皆さんから、本エッセイ含めて、ご意見をお寄せください。

(2025年8月1日 記(リフレッシュするべき8月を迎えて)
イノベーション・インテリジェンス研究所 幸田博人)