日本においても、生成AIの広がりが目に見える勢いで浸透しはじめていること、実感される状況になってきました。
従来のインターネット検索から、生成AIに聞くことにシフトすることは普通に行われています。
その生成AIのソフトな語り口に魅了され、その内容に様々なヒントをもらうことが当たり前になっています。
また企業における生成AI導入が大きく進みはじめ、例えばあらゆる業務プロセスにAIでのサポートが増加していること、金融関係でも資産運用の分野でAIの活用が多面的に行われるなど、当初の物見遊山的な扱いから様変わりの状況になっています。
一方で、何でも本物のように示してしまう生成AIが衆議院選挙においてSNSを通じて偽情報を拡散させるなどの悪影響も大きくなっています。
生成AIの弊害防止をどう行うかの議論も活発になっています。危険性との隣合せの状況ではあるにせよ、このAIの浸透や活用の広がりは取り入れながら前向きに進んでいくしかない状況と思います。
本日の話題は「AI●●さんの限界と読書の有用性」です。
最近企業で流行しているAI●●CEOや、伝説のファンドマネージャーAI●●さんなど膨大な資料を取り込み、個人のAI化のチャレンジが壁打ち的な生成AIとして活用が広がりつつあるように見えます。
このAI●●さんの役割を壁打ちだとしても、いずれ実在の人間を乗り越えていく時代も目の前にありそうです。このAI●●さんをどう評価していくか、生成AIにない人間の価値はどこにあるかについて考えてみたいと思います。
そうしたことを考えるにあたって吉見俊哉『自己との対話 社会学者、じぶんのAIと戦う』(集英社新書 2025年12月)が大変参考になります。
吉見氏は1957年生まれの著名な社会学者で、東大名誉教授、専門は、都市論、メディア論、現代文化論、戦後日本論、アメリカ論、大学論など多岐な領域にわたっており、著作も数多い方です。
吉見氏は、過去45年にわたる自分自身の著書や論文、インタビュー記録、研究ノートなどをAIに読み込ませ、その上で「AI吉見くん」との対話を行っています。
本書籍は4つのテーマ(社会学、大学、都市、アメリカ)について、約9か月にわたって行われたものです。その中で、吉見氏はAI吉見くんについて、①応答に一貫性があるか、②反論できるかどうか、③矛盾に気づく能力、➃背後仮説を見出せるか、⑤思考のジャンプ、⑥AIに身体性がないことの影響について、解明しようとしたものです。この6つのポイントについて吉見氏がどう評価したかは、本書をぜひ読んでいただき参考にしていただければと思います。
私自身、この吉見氏と「AI吉見くん」との対話の中で特に面白かったことは、AIは読書をしていない、あるいは読書をできないことを明確にしていたことです。
AIとの会話はあたかも読書をしているごとき錯覚を得てしまいがちです。
実際、私がAIに吉見氏の本書籍の感想を聞くと長い感想文が出てきます。AIが読書感想文を書くことと、AIには読書ができないということは一見矛盾している気がします。
でもAIは読書をしてはいないのです。私自身はAIが決して読書はできないということをあらためて認識できたことは、本書の読書から得られた大きな収穫でした。
この点について、以下少し解説します。
吉見氏は、「彼は一冊も本を読んだことがないし、今後とも「読書」という経験をすることは決してできないという正直な告白だったように思う。AIは、どれほど多くの本や文献のデータを学習していても、それらの本や文献を「読む」ことはしていないし、そもそもそのような行為をできない。それにもかかわらず、AI吉見くんはそれらの本や文献について多くを語り、私たちを錯覚させるのである。」(同書295-296頁)とあります。
実際のやり取りを見てみると、AI吉見「私はAIであり、実際に読書することはありませんが、膨大なテキストデータを学習して情報を提供しています。そのため、書籍の内容についての知識を持っていますが、実際の読書体験はありません。」(同書58頁)と言っています。
この意味することは何か、AIは書物データの解析を統計的な
手法、アルゴリズムで行っているので読書をしているわけではないということです。
でも実際の読書をする代わりに、AI解析を通じたものをベースにして実は読書をしたように錯覚してしまうことは起きやすいと思われます。
AI吉見くんは「読書は情報の受容だけではなく、感情や経験を通じて深い理解を得る行為であり、批判的思考や創造性を育む重要なプロセスです。私はAIとして、これらの概念を分析し、説明する能力を持っていますが、実際の読書体験を持つことはできません。したがって、読書についての知識や理解を持ちながらも、個人的な体験に基づく感情的な洞察は欠如しています。」(同書59頁)と言っています。
この内容から、読書とは表面的なデータとしてのコンテンツを得る手段ではなく、読書とは、書物の文字を読むことを通じた経験、双方向的なダイアログを通じて何かが人間の脳に得られていくプロセス、行為であることを意味しています。だから生成AIには読書はできないということだと思います。
ところで、日本の読書はどういう状況になっているか文化庁による調査「令和5年度「国語に関する世論調査の結果の概要」から見てみます。
2023年度(令和5年度)の調査で「1か月に読む本の冊数」はという問いに対して、「「読まない」が62.6%」、「1、2冊が27.6%」、「3、4冊が6.0%」などとなっています。この調査対象者は、全国16歳以上の個人6,000人で有効回答率が59.3%となっています。
過去と比較すると、2008年度(平成20年度)は、「「読まない」が46.1%」、「1、2冊が36.1%」、「3、4冊が10.7%」なので、約20年を経て激減していることが見てとれます。ここまで読書がなされていない状況になっているということは、もはや「読書」をAIがしていないということにさほど大きな価値がない時代に入りつつあるとも言えるでしょう。
そういう観点では、AIが有している「読書」もどきに価値ある情報が実は内包しているとも言えます。逆説的に言うと、「読書」体験はAIが持たない価値を導いてくれる可能性が相応にあるわけで、意識的に「読書」体験を持つことこそが、個々人とAIの差異性を創ることにつながる可能性もあるということでしょう。
私自身は、AIにできない「読書」経験を通じて人間的知性を高めることは相当有用ノだとあらためて思いましたので、「読書」の意味は引き続き発信していきます。
しかし、必ずしも「読書」のみに焦点をあてる必要はなく、「読書」以外の様々な人間的な経験(ネットワーキング、散歩など)を通じて、人間的知性を高めることは十二分に可能です。
大事なことは、AIに頼りきらずに、どう自己を構築していくかが問われる時代に入っていることです。このテーマ、深遠なのでまた取り上げたいと思います。
皆さんから本エッセイ含めてご意見をお寄せください。
(2026年1月12日 記 (今週からミラノ・コルティナ冬季オリンピックで楽しみです)イノベーション・インテリジェンス研究所 代表 幸田博人)
